今回初めてイルリメのトリミングという曲のMVを制作してくれる事になった映像ディレクターの大関泰幸氏、大学に入り、ハードコアと出会い、仲間とZINEを制作し、社会人になり、知り合いのバンドマンと関わっていくウチに気がつけば映像ディレクターという仕事をしていたその経過の中で、何を見て何を得たのか取材させていただきました。人のなかに歴史あり、歴史のなかに人があり。それでは映像ディレクターという仕事の紆余曲折、聞かせていただきましょう。

 

大関「早稲田大学に入りたかったんです。早稲田の二文に、芸術学部ってのがあるんですよ、そこ映画監督とかよく出てるんで、そこ入ったら何か面白いことあるかな~って思ったんですけど現役で落ちたんです。で、俺どうしようかな~って予備校のパンフレット見てたら、河合塾ってあるじゃないですか?そこのパンフレットの一番最後のページに、美術大学受験コース、ってのが目についたんですよ。
「あれ!?美大に行くのって予備校とかあんだ!」って。知らなかったーと思って。で、電話して聞いたら映像学科の受験コースってのがあったんですよ。それで、ここ通ったらおれも入れんのかな?って思って行くんです。僕、茨城県の土浦市ってとこに住んでたんですけど、そこから東京の三鷹の河合塾まで毎日2時間半くらいかけて通うんですよ。

高校3年の受験の時は早稲田の方受けただけで美大は受けなかったんです。あと立教の美術史とか何かそういう美術関係がある文学部みたいな所を色々受験してて、その中で受かったとこもあったけど、美大に入れないもんかなと思って浪人をしまして。三鷹の河合塾に映像コース出来たのが間もなくて5人くらいしかいなくて、その時から今も交流がある人間はひとりもいないんですけど。まあこの話いらないすよね(笑)

映像学科というのはデッサンとかは試験内容に無くて絵コンテみたいな4コマ描いたり、それか「光」とか抽象的な題与えられて、そこから連想される絵を描きなさい、みたいな想定デッサンていうのをやるんですよ。それと小論文。以前の美大の受験で出た問題の様なのをやらされて。

勉強の方の予備校も一応浪人してるから週一かな、行ってましたね。それは千葉の松戸。それも片道1時間かけて。何か知らないすけどね、何でそんな遠いとこいってたんですかね(笑)

その時音楽は浪人生の時はプログレの時代かな(笑)ノイズかな?何かまあ、メロディーがある様なのはあんま聴いてなかったすね(笑)Whitehouse、思い出波止場、Merzbow、PINK FROYD、King Crimsonとかカセットでたぶん、聴いてたんじゃないかなー(笑)高校生の頃は音楽聴くってより本読んでましたね。梶井基次郎好きで。後、安部公房、中上健次すごい読んでましたね。

高校時代、俺の住んでる所はヤンキー、風俗、ヤクザ、霞ヶ浦で釣りぐらいしかなくて。本当に一人も友達もいなくて、こんな所でこのままいくとおれ狂っちゃうんじゃないかなって思って、よく分からないんですけど、サッカーやってたんです。まあ、それで、これは何かしないと死ぬなーと思ってはいるけど、別にサッカーなんて好きでやってる訳じゃないから、特に上手くもならないし、でも体動かしてないと本当に死にそうだったからたまたまサッカーやってたくらいで。だけど人数もそんな多くなかったから、レギュラーではあったんですけど、でも別にそのチームも強い訳じゃないから、何の向上心も無くて。

真夏のね、練習終わりで、青い空見上げると本当、おれ、死ぬんじゃないかって(笑)吸いこまれて死んでしまうんじゃないかと思って(笑)それで何でですかね?人と違う事、人と違う事と言うか、何だろうなー。友達がいなかったっていうか本当に嫌な奴しかいなかったんで。僕らの頃ってコギャルブームの最初の方の時期だったんですけど、男は色黒くて髪の毛長くて、カチューシャして腰履き?何かチーマーみたいな格好。女はもう色黒くてコギャル。何かこんなやつらと一緒にいたくない、みたいな、何と言ったらいいんですかね?思春期によくありがちな、そういう感情をずっと持っていて。そういう一般社会の中の常識で生きないで、生活していく事ってなんなんだろうなって思ったらやっぱり人と違う自分の好きなことをやるしかないなって思ったんですよ。絵とかデザインとかに自信も興味もそれほど無くて、音楽に関しても関わっていきたいとかそういうのも当時全然無くて、自分は何に興味があるかな?と考えたら、映画が好きな事を思い出して、この先、映画を作りながら、生活していけたら良いな~と漠然と考えたんですよ。だったら高校時代の大嫌いな奴らとこれから先の未来を交わらないでも生きていけんじゃないかなって思って漠然と一応進路を考えるんです。小栗康平って大好きな映画監督がいるんですけど、その監督が早稲田大学の第二文学部だったんですよ。だから早稲田大学行きたいな、と思ったんですよ。部活が終わってからも大して勉強をしてた訳じゃないんで、早稲田大学は当然落ちました(笑)で、浪人して美大受験の勉強をし始める訳なんです。それで、一年間浪人したんですけど、美大に落ちまくるんですよ(笑)考えがマジ、甘かったッス。

で、武蔵野美術大学って所に当時短大があって、予備校の先生が短大に入っておいて大学に編入するって手もあるから短大受けとけばいいんじゃないって提案があって。だけどそこの短大のグラフィックデザインとかは、結構レベルが高いんすよ(笑)だからこれは無理だなーって思ってたら、そん中にひっそりと生活デザイン科という謎の学部があったんですよ(笑)そこはプロダクトデザインだったり、エディトリアルデザインだったり、基本的にもう何やってもいいみたいな、とこで。そこで2年我慢して3年次に、2年の間に作品作って映像学科に編入したらいいんじゃないかって言われて。とりあえずそこを受験したら、受かって。で、まあ、とりあえず入るわけです。

美大に入って1年生の時、BORISのドラムの人が店長してたレンタルビデオ屋さんでバイトするんですよ。バイトし始めたらその人にジャーマンプログレとか(笑)後、Hawkwindみたいなサイケだったり、Corrupted、SUNNとか重たいスラッジコアとストナーロックとか色々凄い教えてくれて、そこで一気に音楽の幅が広がるんですよ。BORISのベースの大谷さんて人にハードコアのミックスMDを作ってもらった事もあるんですけど、HERESYとかAdrenalin O.D.、DEEP WOUND,VOIDとか入っててて、そこでハードコアも詳しくなったんです。

それで短大の2年生くらいの時かな、耳部というヒップホップとかレゲエとかハードコアパンクが好きな集団がいて、アバンギャルドなものと、その辺にある普遍的なものに対してあまり分け隔てないというか、今まであまり回りにいなかったバランス感覚が良い人達が集まって何かやってたんですね。で、そこに写真家の五十嵐一晴くんって友人が同じ学部にいまして、その五十嵐くんがそのグループを紹介してくれて。その耳部にデザイナーの大原大次郎君がいたり、TOONICEを作る人達だったりがいたんです。その中でもハードコア好きな人とレゲエ、ヒップホップが好きな人というのが何となく2分されてたんです。で、僕はヒップホップとか当時1ミリも聞いたことが無かったから自ずとヒップホップじゃない方、ハードコアとかの方と仲良くなっていって。その時からU.G MANとかBREAKfAST、STRUGGLE FOR PRIDE、羅針盤、ボアダムス、キリヒトとかライブ見に行くようになるんですね。それでハードコアとかの方で岩崎くんて言う、TOONICEを一緒にやってた人からハードコア以外のSUBPOPやMERGE、K、DRUG CITY、Kranky、DOMINOとかKILL ROCK STARとか、レーベルの90年代のアメリカンロックとかオルタナを教えてもらって。で、そういう音楽が自分にしっくりくるんですよ。

何というかポップなんだけど、実験的なサウンドばかりで、出会えて本当に良かったです。その耳部の人等がプレイボーイズムって雑誌を作ってたんですよ。小冊子みたいなファンジン。それはクラブものから漫画や小説や音楽とか全部のメディアのレビューとかいっぱい書いてあって。それが面白いなって思ってそこに5号くらいから参加し始めるんです、映画のレビューとかで。で、その頃からレゲエ、ヒップホップ好きな人と、パンク、ハードコアが好きな人たちとちょっと分かれ始めたんですよね、分かれ始めたっていうかヒップホップとか好きな人達は割りと明るい人達なんですよ(笑)で、ハードコアとか好きな奴らはほんとシャイで(笑)クラブとか行っても隅っこでモジモジしてるみたいな、そういう奴ら(笑)仲悪くなった訳じゃないんだけど、まあ、ちょっと別れたんですよ。それでプレイボーイズムだとチャラいと(笑)だから「俺らは俺らで何かやりたいね」って、岩崎くんって中心人物がいて、その人が多分言い始めたんですよ。で、やろうってことになって作り始めたのがTOONICEっていうファンジンで。"I DRINK MILK"っていうデザイナーの佐藤穣太さんって人がやってたジンがあって、おもしろい人にインタビューしたり、しょうもない内容の記事があったりしながらも内容はもの凄く濃くて、尚かつデザインが洒落てる、もの凄いクオリティが高いものを穣太さん一人でやってて、値段も300円くらいで超安い、超クールなものがあったんですよ。「そういうのやりたいね」みたいな感じがあったような気がします。で、パンク、ハードコアの雑誌を作ろうってことになって当時YOUR SONG IS GOODが始まったばっかりの頃ですかね、その頃、僕は東京いなかったんで知らなかったんですけど岩崎君とかはFRUITYとか好きで。淳くんがユアソング始めた頃、ユアソングが凄いからTOONICEの1号で淳くんのインタビューやろうよ、って事になって。淳君って、当時皆、知る人ぞ知る存在で、超格好良いけどまだメディアが取り扱ってない時代で、誰よりも早くロングインタビューしたんですよ、多分。それが功を奏してかわかんないですけど、何となくTOONICEって雑誌がまあまあ知られるようになって。で、2号でBREAKfASTのギターの酒井くんの取材やろうってことになったんですよ。そのころ身内ノリではあるんですけど、ちょっとずつ外向いてったていう感じだったんすね。そのファンジンはBASE、ALL MAN、NAT、後warszawaとかハードコア扱っているレコ屋に置いてもらってたんです。
1号はフリーだったんで0円。それは学祭で色んな人にタダで配って。

あ!そう武蔵美の3年のときに僕、無事編入できるんですよ(笑)だから編入試験とかあったんで1号はあんま関わってないんですよ。

で、それ出してから11月に学祭があるんで「そこで何かイベントやりたいね」って事になってYSIGの取材もしたし、YSIG呼びたいねってなって1号館って何百人も入る教室を1日借りてライブやろうってなって、YSIGを最初に呼ぼうって決めてたからそこを軸に考えて自分等が好きなバンドに声かけていったんですけど、YSIG、BORIS・・BORISはBORISで海外でももの凄く人気があるバンドで、すげ~出てくれるんだ~ってなって。あと9dwとSTRUGGLE FOR PRIDE、SFPは当時、ZKの企画がリキッドであって、それに行って今里くんに直接交渉するっていう(笑)それとTWINKLE。BREAKfASTも出て欲しかったんですけど酒井君がEXCLAIMのアメリカツアーで出れなくて(笑)このイベントは機材の調達から照明、音響から何から何まで自分らでやったような気がします。入場料が500円だったんですけど、200人とかお客さんが来てくれてビックリしました。TOONICE1号はそこで確か配ったんですよねー。初めてそこで配ってからベースとかオールマンとか置いてもらうようになるっていう。それで無料だからフライヤーと一緒に置かれる感じなんですけど、ある日warszawaに行ったら、雨の日で、濡れた廊下にぐっちゃぐちゃにもう(自分達のZINEが)散らばってて(笑)で、それ見て、うわ~これはやだよね、って。で、2号からお金とろうって事になったんです。

2号は酒井くんのインタビューして、1000部くらい作ったんですかね。1冊100円かな。まあそんな感じで、そのバンドマンって人と仲良くなっていくんです。会えば喋れるくらいの関係ですけど。1年後2号作ってまた同じようにイベントやるんですよ、で、そこでBREAKfAST、日本脳炎、ECD&イリシットツボイ・・あ、それで、ツボイさんが、すんませんターンテーブルそっちに用意してもらっていいですかね?ってなって、用意したら、当時仲良かった羽田くんて子に借りたんですけどツボイさん荒い使い方するじゃないですか?(笑)ぶっ壊すくらいの?(笑)だから、まあ、本当に壊れるっていう(笑)
すげー嫌がってたな(笑)ツボイさんが持ち上げるたびに「はぁ~・・」ってその子が(笑)それが2002年です。

TOONICEで嬉しかったのはNATかBASEかALL MANか忘れちゃったんですけど最初置いてもらった分が直ぐ無くなっちゃって、バックオーダー来たのが凄い嬉しかったです。人生初のバックオーダーが来て、で、全然赤字なんですけど、当時は学生だったし、こんな凄い事をただみたいな値段でやってるのが格好良いんだぜって思ってたんです(笑)

当時ファンジンて結構いっぱいあったんですけど「新響」ってTHERE IS A LIGHT THAT NEVER GOES OUTって今、Zってバンドいるじゃないですか?Zの人たちが前やってたバンドなんですけど、ゼアイズが出してる「新響」ってZINEが凄くて。内容が本当にもう、哲学にまで飛んじゃうような深い内容でありながら、ポップで。で、俺らのTOONICEより、その「新響」の方が出たの早かったんで、負けないもの作りたいねーって。その頃パンクロックやエモハードコアシーンの中でZINEがブームで。
やっぱり俺らみたいな人見知りで音楽が出来る訳でも無い、やたら内向的なやつらが一杯ZINEを作ってる時期だったんですよ。そん中では、僕ら意外と格好良いことしてるじゃないかっていう(笑)2号くらいで思ってたんですけど(笑)でも、その「新響」っていうZINEが新しいのが出る度に凄くて、、、
その「新響」作ってる人達は僕らより4つ5つ上だったから多分、僕らより先に社会に出てて、仕事が忙しくて、バンドしながら生活するということがどういうものなのか、という衝撃的な内容が沢山あって、僕は学生だったので、漠然とした不安を覚え始めるんですよ。
で、TOONICE2号作った後に卒業したけど当然就職出来なくて。まあ就職活動は結構したんですけど、超有名どころを何個も受けて、NHKとか博報堂、電通、まあ受かる訳ないんですけど(笑)

で、どうしようと思ってフラフラしてたら、アルバイト情報誌にテレビ番組のアシスタント募集みたいなの書いてあったんで電話したんですよ。それで面接に行ったら、まあ当時僕本当に暗い人間だったんで(笑)「君、撮影たぶん、向いてないよ」って(笑)「だから編集だったらいけると思うからちょっと知り合いの所紹介してあげるよ」って言われて編集スタジオのアシスタントやることになるんすよ。
まあそこが結構な地獄で(笑)四谷三丁目にある会社だったんですけどTBSの下請けが多いのかな?番組のコーナーの編集のアシスタントとかしてたんですけど、もういじめられながら朝から終電ギリギリまで仕事を1年続けて辞めて、そっからちょっとふらふらしてCanonの契約社員だか派遣社員になって、そこで2年間くらい働くんですけど、給料も良かったんで、もうここがいいやって思って。

TOONICE3号が大学卒業してからも出たんですけど俺が地獄のアシスタント仕事してた時期だからちょこっと書いただけです。でもライブとかは仕事忙しかったですけど、行ってましたよ。YSIG、BREAKfAST、SFP、BLUE BEARD,EXCLAIM、ゆらゆら帝国、二階堂和美さん、Place called space、さかな、ふちがみとふなと、もちろんイルさん、ECDさん、等等。TOXIC PUNK WASTEってワタゾウさんがやってた、あの企画に出てるバンドが凄い好きだったので、ワッツが一番多かったんじゃないかな。

で、Canonの仕事は普通の仕事なんで、そんな辛いとかなく、まあ何とか普通にやってるんですけど、その仕事してる頃、山田君て耳部にいた人の紹介で、西澤さんという人から連絡あるんです。西澤さんはBLUE BEAT PLAYERSっていうバンドの鍵盤奏者でLITTLE MASTAっていう名義でソロ活動もしてて。その西沢さんが吉本興業で働いてて、吉本ファンダンゴTVでダイノジの音楽番組を始めるからディレクターやってくれと言われて、ディレクターという職業が僕の中で始まるんです。でも、やり方が全然分かんなくてディレクターも制作も誰もいないから俺と西沢さんと見よう見まねでゲストとダイノジが喋るのとライブ映像とかで作ってって。でも、今までの仕事と違って好きな事で金もらえるからやりがいありましたね。で、その時に西沢さんがブルービートを辞めてソロをLITTLE MASTAって名前で出した時のPVが俺が一番最初に作ったMVなんすよ。

 

LITTLE MASTA 「happy x'mas(war is over)」

それ作った時は手応えとかと言うよりも何にも分かんない事だらけで。今でこそ、ここでこういう演出してってアイデアと演出を考えられますけど、当時なんて何にもわかんなかったんでね。ただ一生懸命つくるしかなかった。で、他にも音楽の映像の仕事はちょこちょこ入ってたんですよ。日本脳炎のMVとかBREAKfASTのMVとかも作らせてもらいましたよ。後THE COLLECTORSのDVDを作ったりしてましたね。


THE COLLECTORS「世界をとめて」

後、indies issueが出してたDVD、「日本ロック名鑑」とかGALACTiKAってDVDマガジンとか手伝ってましたね。そのGALACTiKAはスペシャでも放送してたんで、それでSSTVの人ととかも知り合いましたね。

仕事は色々やらせてもらっていたんですけど、あの、当時仕事で関わった人には申し訳ないんですけど、あの頃は何も分かっていなくて、最初にしっかりとしたビジョンが曖昧にしかなくて、撮影してから編集でなんとかつないでいくやり方してたんですよ。だから今はこういうもの作りたいとか最初に自分の中でビジョンはあるんですけど、当時、何もないっていう訳じゃなかったんですけど、やっぱね腕も無かったですからね。腕も考えも。俺しか出来ないものとかそういうのが。

それで、ここら辺は2003年から2004年の話で、そのくらいにキャノンの仕事は映像が忙しくなってきたから辞めるんですよ。そのあたりからYSIGと仲良くなると思うんですよ。まあ最初はバリカクだと思うんですけど、もともと彼は西荻窪のワッツというライブハウスの店員で、TOONICEやってた頃から早めにコンタクト取ってきてくれて。あ、でもYSIGより先にSAKEROCKだ。SAKEROCKってバンドをウチで初めてやるからPV作りたいんだけど、予算が全然無いから大関なんかやってくんない?ってバリカクから言われてやるんです。SAKEROCKの「殺すな」って曲のMVで下北の喫茶店にSAKEROCKの源君とバリカクが居て、そこに行って打ち合わせをしたかな。源君が最後に家に来て口出ししてくれてそれで完成したような記憶があります。

その辺りにSLOTH LOVE CHUNKSって、キウイロールの小倉くんとナンバーガールの中尾くんがやってたバンドのMV作らせてもらいましたね。

SAKEROCKのMVを作ってからLIFE CYCLEのツアーがあって、それ全箇所行くんですよ。初めてバンドとずーっと一緒にいて撮影して何か作るっていう、それがスゲー楽しかったんですね。それをDVDにするって事で。源君は映像ももの凄く詳しくて役者もやってる人なので、SAKEROCKでやりたいことが明確にあったので、下地は僕が作って、ここいらないすね、ここに何何足しましょうとか言ってもらう感じでそれも作りました。だから監督というか、二人で作っていった様な気がします。だからYSIGより最初SAKEROCKの方が仲良くて、YSIGは2005年のクアトロのワンマンあったじゃないですか?あれでユアソングの映像ちゃんと初めて撮りましたね。BREAKfASTもライブずっと撮ってましたね。DVDにするつもりで。リリースはしてないんですけどね。

その後、スペシャのハマケンの下克上だ。イルさんが出てた「STUDIO GROWN」。「STUDIO GROWN」ってSSTVの番組の中にハマケンの下克上ていうミニコーナーがあって、ハマケンとあれこれ考えながら。ネタがない、ネタがないと毎週毎週考えて作ってたんです。そこでスペシャの人たちと仲良くなるんですよ、STUDIO GROWNのディレクターの村尾さんという人だったりプロデューサーの大橋さんとか。そういうSAKEROCK関連の仕事もしつつ、YSIGはライブは毎回毎回撮ってたんですね。

ユアソングのMVの話なんですけど、最初のは「GOOD BYE」って曲で、モーリスの絵を淳君の大学の同級生の小島淳平さんというCM界でバリバリやっている人がアニメーションさせるビデオを作って、
2個目はさっき言った小島淳平さんが、海の中で演奏してる「SUPER SOUL MEETIN'」。で、まあ、その辺りから、一番身近にいるのに、MVの仕事が頼まれないの、スゲー悔しいなと思ってたんですよ、
悔しいけど、やっぱり自分に力がない、と思ってもの凄く悩み始めるんですね(笑)

2006年かな、SAKEROCKが凄い人気が出て来て、スペシャボーイズって番組で、その中に源君のコーナーが始まるんですよ、源君が大関さんとやりたいです、って言ってくれて、凄く嬉しかったですけど何やったらいいのかもの凄く悩んじゃって。ハマケンの下克上やってる時と今回のはまたやり方が違うし、源君の考えてる面白い事、こういうのやりたいっていう事にあうアイデアが上手く出せなかったんですよね。で、そこからSAKEROCKの映像を山岸聖太さんという方がやるようになって、そのあたりでスゲー悩んだんですよ。うわーきたなーって。薄々は分かってたんですけど、やっと直面して。このままだと駄目だなーって悩んでた時代なんですよね。それがもう本当にくやしくて、まああたりまえなんですけど、まあSAKEROCKは凄い好きなバンドだったし、YSIGもそうなんですけど、そのバンドのレベルに、自分が追いついてないなと。そのレベルに追いついてないのに仲が良いからって理由でやらせてもらってた部分がいっぱいあったから、そこを見直したんですよ。で、自分に何か出来ないか?っていうのをずっと思ってて。その間もM-ON!(エムエムというGeorge WilliamsがVJの番組のディレクター)で仕事やらせてもらったりしてました。

それで2006年から2007年は悩んでて2008年はYSIGの「THE ReACTION E.P.」の初回特典版のDVDやったりライブを作ったりしてたんですけど、それもまだ悩んでましたね。あ、2007年に上野の「Bay Dream」のMV作るんだ。

 

サイプレス上野とロベルト吉野「Bay Dream」

その辺りから上野と仲良くなって、2008年にそのつながりでSTERUSSの「ソラノウタ」のMVを作りましたね。

 

STERUSSの「ソラノウタ」

自分が一番いいと思う、実感が得れるのが何なのかっていうのを作りながら探ってたと思います。で、サイプレス上野のもSTERUSSのも曲を聴いてイメージを膨らませて、作ったんですけど、自分的にはもの凄く気に入っている作品ではあるんですけど、自分なりのものがまだ見つけられてなかったと思います。で、その間にもYSIGのACTIONというアルバムが出た時もMVは田中裕介さんていうこれもMV、CM界でスゴ腕の人が作ったんですよ。また悔しい思いをして。でもそれが当時の自分の力量ですからね。あ、でも2007年くらいに作ったBREAKfASTの「GRIP TAPE」というMVは今までとちょっと違った気がしたんですよ。マメカムを使ったアップ中心の作品でした。

 

BREAKfAST「GRIP TAPE」


で、それくらいの時期にColdplayの「Yellow」って曲のMVを見て。それは砂浜を歩きながら歌って、夜が朝になるだけっていう内容で、それが一発撮りで、凄いなって思ったんですよ。あとで色々てを加えるより、めちゃくちゃ格好良いなって思って。だって夜から朝にかけてって一回しかないじゃないですか?それに全精力をかたむけるっていうビデオで。それから、こういう事出来ないかなって思ってて、流れ流れて2009年になって、the chef cooks meってバンドが、昔から一緒にビデオを作ろうって言っててくれてて。やらせてもらうんですけど、そこで一発撮りの手法を使い始めるんですよ。

まあ、Coldplayの作品とはまるで趣きの違う作品なんですけど、今回のMVは展開が読めなくて、最後までドキドキするような作りをしたいなと思って、撮影してる中で僕だけじゃ無くて、バンド側も作品のイメージが出来て尚且つ現場で、ただ観てるだけの人が全くいない、肉感的なビデオが作りたいなって。誰かがが一つまちがったらやり直しみたいな。この作品は大原大次郎くんにアイデアをお借りして、共同監督っていう感じでシェフのMV作るんですよ。


準備5時間、リハーサル3時間、撮影1時間みたいな、全員が全力で100m走してるような、MVをやっと作れたんですよね。それが自分なりには転機だったんですよ。これが出来上がってやっと周りの人も「あ、大関できるんだ」って思ってくれたみたいなんですよ。YSIGのモーリスから質感がスゲー良いって言われたのが本当に嬉しかった。それで、2008年の後半からユアソングのDVDを作ってたんですね。これは作り始めてから発売までは1年くらかかってますね。YSIGのDVDは本当に彼らの10年の集大成のドキュメンタリー作品だったので、作れて本当に良かったです。このあたりから悩みとかはそんなになくなって、アイデアをひねり出すのは未だにつらいですけど、それでCOMEBACK MY DAUGHTERSのDVDのライブの方のディレクターをやらせてもらうんですね。CBMDもずっと仲良くて、もの凄い格好良い尊敬するバンドだったんで、ずーと一緒に作品作りたかったので、本当に嬉しかったです。

 

COMEBACK MY DAUGHTERS「Bored Rigid」


で、YSIG、CBMDのDVDが出来上がって、そこからMV作りが加速するんですよ。その後作ったyour gold, my pinkっていう大阪のバンドも、やらせてもらって、

 

your gold, my pink「Are you sensitive?」

次にasphalt frustrationていうバンドのMVを年末に作って。

 

asphalt frustration「money makes the world go around」


まあそれも一発撮りで、たて続きで撮らせてもらって、割と、自分なりのやり方を見つけてったんじゃないかなーって。

後、WE ARE!だ。それはシェフの次なんですけど。曲良くて、でもMTVとかでそのバンドは流れるとかじゃなくて、ネットで流したいという事だから割とライトに考えて。

あれイメージがあったんですよ。ヴェルクマイスター・ハーモニーって映画があって、その映画のワンシーンで、酒場から出てきた男が道を歩いているのを15分くらいずっとカットを割らずに撮ってるんですけど、凄い孤独な映像で。あと「サクリファイス」というアンドレイ・タルコフスキーの映画もちょっと参考にしました。それがなんかWE ARE!の音楽とつながって、なんか生かせないかなって。それで、ああいう映像になったんですよ。

 

WE ARE!「PAIN part 2」

もともと自分がいたエモシーンの人からとか反応もらえて、「良かったよ、あれ大関くん作ったの?」って、それが結構意外だったんですよ。これが一番Coldplayのに近いんですけど。でも「あれ?これが良いって言われるんだ」ってちょっと分かんなくなって。全部並列で頑張って作ってたんだけど、一番シンプルな作品だし、パっと見だと良さが伝わらない作りをしていたので、意外でしたね。でも、見直してみたら自分でも良い作品だと思えました(笑)

だから作ってるときってそんな手ごたえがあった訳ではないんですよね。でもあれは凄い撮るとき苦労しました。後、WE ARE!のMVはYSIGの淳君がすごく反応してくれて、嬉しかったです。

その間にサイプレス上野とロベルト吉野のDVDも作りましたね、あれも出るまでにすごく時間がかかって、大変でした。でも僕みたいなヒップホップのシーンにいるいない人間がヒップホップアーティストのDVDを作る、そこがすごい楽しかったですね。楽しんで作れました。

 

サイプレス上野とロベルト吉野「WONDER WHEEL THE LIVE」

で、年明けて2010年ユアソングのPVだ。それでやっと晴れてMVの依頼が来て。スゲー嬉しくて。今までの作品は割とバンドのメンバーにこう動いて、とかああ動いてとか、もの凄い演技してもらってたので、今回はメンバーは演奏してるだけで、メンバー以外のものが面白い状況を作っていくというようなものにしました。2009年に作ったギミックが多い作品と、もの凄いシンプルな最後にカタルシスが感じられる作品の良い所を生かせたと思います。


YOUR SONG IS GOOD「THE LOVE SONG」


だからこれで一区切りですね。2004年からずっとやりたいって思ってた事だから。やれてよかったですね。

それで年明けにイルさんのも出来るようになって。トリミングは本当プレッシャーなんですよ(笑)昔から一番好きな曲だし、客(リスナー)も絶対に凄い好きな曲だから、みんなが良いと思えるようなものを作りたいですね。何か、大きいイメージなのが一つあったほうがいいなと思ってて。浮遊感のある。最初、その、窓に歌詞の付箋をはってゆくようなのを考えたんですけど、それじゃ地味すぎるなって思って、自分のイメージは優先だけど、割と外行きな格好はさせたいと思ってて、誰もがなるほど、って思うもののさらに一つ上のイメージを出せたらと思ってアイデアを固めました。

割とイルさんって何か雄弁で、ライブとかだとドカッと行くし、俺とかの前だとダジャレしか言わない、なかなか本心を見せてくれない人なんですけど(笑)何が本質かなん誰も分からないと思うんですけど、自分の中のイルさんていうのはこういう人なんじゃないかなっていうのが出したいなって思ってるんですけどね。まあ本当のこと絶対言わねえから、こういうので出ねえかなって思ってるんですけどね。今までを総括して作ったものがYSIGだとしたら、これからの始まりがイルさんのMVだと思ってます。

今まではひとりでも分かってくれる人がいれば別にいい、と思ってたんですけど、今は100人みて90人は良いといって欲しいですよね、10人は別にいいけど(笑)性格が合わない人10人は絶対いるから、そういう感じでつき合っていきたいんですけどね、作品とは。自分にはそういう才能はないとは思うんですけど、まあ割と誰が観てもおもしろいと思ってもらえるものを作りたいっていう欲求はあります(笑)俺なんてポップな人間じゃないじゃないですか?それがポップな作品だって凄い言われてるんですよ、なんなんですかね(笑)凄いアイロニーしかねえつうの(笑)根底には本当、EXTREME NOISE TERRORしかないすね(笑)今後PV作ってみたい人はー、やれるもんなら東京事変とかやりたいですよ!ミスチルとかも出来るならやってみたいし、そういう大きな予算で作れるものをやってみたいのもありますね。イルさんもずっとやりたかったです、だから未彩ちゃんとか伊瀬さん、うらやましかったですもんね。あとCBMDのMV、後なんかいたんだよな、凄い好きな女の子。あ!チャットモンチー!
あとYSIGもまた作りたいし、アイドル声優モノもやりたいです。でもまあ色々やりたいですよ、今までやった人も機会がればまたやりたしですし。後、ドキュメンタリーもやってみたいです。

 

映像ディレクターという仕事柄、他にも沢山の様々な職種の方々と仕事をした話も聞かせて頂きましたが、そこも加える事になると「膨大な量になる&流れがひとつに絞れない」というこちら側のまとめる力の無さから割愛させていただいた興味深い仕事話も多々ありました。決して彼が忘れている訳では無い事を報告させていただきます。3時間という長丁場、頼んだチーズケーキもそこそこに1人延々と喋りきった大関君、ありがとうございました!

 

 

大関泰幸

1978年生まれ
茨城県土浦市出身
2002年武蔵野美術大学映像学科卒業
2005年よりフリーランスのディレクターへ
ミュージックビデオのディレクターを中心に活動中

 

> 制作サイドインタビューその1
「360° SOUNDS」アートディレクター・河野未彩氏ロングインタビュー